女川町誌
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二、県立公園制度の発足宮城県は明治三十五年四月十八日県立公園管理規則を、翌年細則を定め、同四十三年松島公園監視規程を定め、大正十四年宮城県松島公園事務所を設置し、翌年その事務規程が設けられ、同十五年十二月北村に県立公園を設置して旭山公園と名づけた。これが本県に於て松島以外に県立公園の生れる先駆となつたわけである。終戦後に至り国内状勢に促されてか、二十二年宮城県条例第九号を以て宮城県立公園法を制定し、二十六年・二十九年と二回改正し県内観光地を整備宣伝し、事業の振興を図つたわけである。本県立公園の指定は松島明治卅五年九月旭山昭和十五年十二月蔵王連峰昭和二十二年二月牡鹿半島二十二年五月二口峡谷二十二年八月玉造温泉郷二十二年八月気仙沼湾二十三年十二月栗駒山二十五年十月であるが、国立公園のない宮城県としては、県立公園松島と牡鹿半島とを一体化して、国立公園松島金華山という海洋公園をめざし、又山岳公園として山形県と宮城県とを有料道路を以て結び、国立公園蔵王連峯の成立を目標に進んで居るようである。三、女川町の観光事業の計画大正の始頃石巻の湊から渡波まで馬鉄が開通してあつたが、大正十一年これを金華山軌道株式会社と改め、小規模ながら軽便鉄道として女川町鷲神まで延長し、「金華山参拝は女川港より」という目標を立てゝ宣伝し、木村熊吉氏(鷲神)等が中心となり金華山一の鳥居建立をも計画したが中絶してしまつた。昭和五年十一月女川汽船株式会社(合同汽船の前身)は、金華山軌道株式会社と連帯運輸の契約を結び、定期航路認可申請をしたが許可されなかつた。昭和十二年七月氏家泰蔵氏が約二百屯の観光船乙姫丸という船底より海底の見える優秀船を廻航し来り、高辺崎には観818

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