女川町誌
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翌六年には仙台地方に大風雨洪水があり、大橋が落ち、民屋二千四百十六戸流失、溺死者二十七人を出した。この年の風水害で七十三万三千五百二十二万石余の損害があつたと報告されている。同七年九月には藩主斉邦は若老以下に命じて、目下の米価が騰貴して人民は殆ど飢餓に陥つているので心力を尽して救助すべきことを諭した。また一方窮民のために米金を賑救した商人廿四人を引見してその篤志を賞した。この年は諸国も飢饉であつたので、米価は著しく暴騰し、十一月に至つては壱歩につき米六升、十二月には五升と騰貴した。その為め封内に暴動も起きた。仙台藩は打続く大凶作のため、借財七十万両に達したので上方の商人も藩に対する金の融通を渋る様になつたという。同八年一月には仙台藩は封内救荒のため、この秋に参府することを許された。まま三月に幕府に請うて金二万両を借り十年間に賦して米を以て返還することになつた。この年頃に至り凶作が打続いたので、封内一部の人民は他地方に逃散するものも出来た。また他藩から流民が入り込んで食糧事情一層悪化したのである。なおその後天保九年・十二年・十三年・十四年と凶作が打続いたので藩民も悉く困衰したのである。かくて打続いた大凶荒のために疫病も伴い多くの餓死者と病死者、そして行倒人を出した。その取扱いは極めて惨めなものであつたという。是等の惨死者を有志者の手で合同埋葬したのが叢塚である。仙台域下に於ては東十番丁天神下の金勝寺の天保叢塚碑、東九番丁の光寿院の天保癸巳叢塚碑などはその代表的なものである。⑴天保年間の飢饉812
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