女川町誌
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が暑気更になく不順なので、諸寺に五穀豊饒を祈らしめた。六月二十日の土用に入つても冷気甚だしく、七月初には袷に綿入を重ねる程であつた。この年仙台藩内が大凶作なので、濁酒や麴・豆腐などの製造を禁ぜられ、また百姓の飯料をも改められた。翌四年に至り奥羽の諸国も共に飢饉が続いたので餓死者数十万に及んだ。同五年は夏以来封内が霖雨のため、五十五万二千石餘の損害があり、翌六年の秋には封内に大雨洪水があり、領内に於て五十三万二千石余の減収があつたと幕府に報告している。そこで藩は封内飢餓者に金三百九十六両、米千七百二十八石、銭七百七貫八百七十七文、その他大豆・麦・粟・稗・田螺・乾鹿角ふの菜り等を賑給した。同七年には幕府は松平定信を老中に任じて八月倹約令を全国に布かしめた。この年も霖雨洪水があつて減収した。同八年も封内に霖雨があり、山崩れ・川溢れ・家屋の漂流、人畜溺死などが相続いて起つた。かく天明年中は飢饉が打続いたので、領内の民は重課を訴えて暴動を起した。その暴徒の一群は仙台城下に入ろうとして七北田まで迫つて来たが重臣中村日向等によつて鎮撫されたのである。その後、寛政・享和・文化・文政と約四十余年の間は、それという冷害や洪水もなく、比較的平穏な時代が続いたが、天保四年(一、八三三)に至り、夏以来気候不順で未曾有の大凶作となつた。藩主斉邦は之を患いて自ら粥をすすつて倹約をしたと伝えられている。この年の封内の減収は実に七十五万九千三百石余と幕府に報告している。そして藩は特に郡奉行をして速かに各郡所管の米・粟の有無を検べさせ、また互に輸送を助けて饑餓を救済するよう命ずるなど、色々と救賑の方策を講じ、一方清酒や濁酒の手造を一切禁じたのである。翌五年の年始に当り藩主斉邦は前年の凶荒により野初の儀を廃し、また親書を出して特に向う五年間は十万石の格式を以て諸事を簡にし、後員女員を省き、庖厨を廃し、衣は垢弊を嫌わず、毎日一度必ず粥を喫するようにとこの難局の打開策を布令した。811
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