女川町誌
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用すること不可なることを知つた。丁度光山峠まで貨物自動車が来ていたので、それに乗り込んで大原を経て小積に帰つた。其間各班は大体災害箇所の調査を了り、帰庁の上其の結果をとり纒めることになつた。第四班、第五班も随分苦闘したらしかつた。第四班の如きは早朝飯野川を出発し、海岸方面調査の為、大川村尾崎より徒歩にて樵夫さへもあまり通らない様な尾崎の嶮により名振に到り、船越・荒・大須を経て熊沢・羽坂より桑ノ浜に至り、船便を得て立浜・大浜・水浜・小嶋を調査し雄勝へ着いたのは午後八時三十分。それより飯野川に急ぎ帰庁したのが十一時頃であつた。その日の行程六十粁、全くの強行軍だ。調査した中で工事関係の被害としては、甚大なる所はなかつたが、唯人畜に対しては荒等は全く全村全滅の形で気の毒であつた。第一、第二、第三班は午後六時、第四班は午後十時三十分、第五班は午後九時三十分、夫々各根拠地に引き上げた。飯野川方面の情報は、武田技手が総括し工区へ帰つたのが午後十一時三十分、全く夜を日に次ぐ奮闘だ。多謝、多謝。大川村より災害報告が入つた、あまり大したこともないらしい。写昭和八年三月三日大川村長紫桃正実印石巻土木工区主任殿被害報告の件昭和八年三月三日午前三時頃海嘯襲来左記被害有之候に付報告候也記一、長面・尾崎間橋梁悉皆流失せり一、海岸・堤防(須賀)表腹付約二十間餘欠潰一、海門口防波堤約三十間流失埋没せり追而電話同朝より不通に付書面を以て申上候本課よりの命令で、明日概算設計書を出す事になつた。然し箇所も相当多いし明日だけでは到底纒らないと言ふので午後十二時頃から復旧概算書を作ることになる。各班は明日の英気を養ふ為に帰宅した、それも午後十二時である。それから工区主任と佐竹書記・武田技手・今野技手・岡書記補等によつて概算調書原稿の出来たのは午前三時頃、全く楽ではない。然し此れも国に対する御奉公だ。兎に角幾分纒まつた安らかさも手伝つてグッスリ疲れを休めることが出来た。三月五日天候雨寒い上に雨とは何事だ。天を眺めて其の無情を詰つた。大槻技師・長久保技師は昨晩千葉甚旅館に宿泊、午前八時頃自動車にて出発、女川方面の災害状況視察の上一旦石巻に引返し再び雄勝に向ふ。実に本省の手廻しの早いのは有難き極みだが、然し矢張り御客様だから楽ではない。女川方面視察中に、書記の方で昨晩作つた概算設計書の整理を急ぎ、午後からそれの再調査に当つた。此の時最も考へさせられたのは、復旧工事として選択すべき工事の被害と、それに対する復旧の程度であつた。此度の様な震災工事に対しては、少くとも八割の国庫補助がある筈だ。此801
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