女川町誌
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襲われた宮古・鍬ヶ先・大槌浦等に家屋の流失があつた。貞享四年(一、六八七)九月十七日には、塩釜を始め宮城郡沿岸に津波があり、その高さ地上一尺五・六寸にして十二・三度進退した。元禄二年(一、六八九)には口碑によれば陸中国海岸に津波があつたという。元禄九年(一、六九六)十一月一日石巻の北上川口が浪が高く、三百余の船と、その船頭とがどこかに流れさられて溺死者が多かつたと記録されている。享保年間(一、七一六―三五)に海嘯があり田畑を害したが、民家人畜を害うに至らなかつた。宝暦元年(一、七五一)四月二十六日には高田大地震の余波として陸中国に海岸一帯に津波があつた。天明年間(一、七八一―八八)に津波があつた。寛政年間(一、七八九―八〇〇)「三陸沿岸」に地震と津波があり、桃生郡十五浜雄勝で床上浸水二尺とある。天保七年(一、八三六)六月二十五日には仙台地方に大震があつて、仙台城の石垣が崩れまた海水が溢れて、民家数百を破り、溺死者が多かつたとある。安政三年(一、八五六)七月二十三日の正午頃「三陸地方」に地震があり、次いで大津波が起り、桃生郡十五浜村雄勝で床上浸水三尺、午後十時頃迄に十四・五度も押寄せた。人畜の死傷はなかつた。けれども北海道南部ではかなりの被害があつた。明治元年(一、八六八)六月本吉郡地方に津波があつた。明治二十七年三月二十二日午後八時二十分頃岩手県沿岸に小津波があつた。793

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