女川町誌
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海嘯とは満潮の際に遠浅の海岸、特に三角形状に開いた河口部に起る高い波である。中国の銭塘江、南米のアマゾン河口並に当地方では三陸海岸の喇叭形に東に開いた港湾、特に追波川河口に著しい。海嘯を津波に当てるのに、厳密な意味では誤りである。三陸海岸の地震と津波地震と津波とは常に深い関係がある。陸地内に於て地震が起きた場合は地震だけに止まるが、海中で地震が起こると津波となる。そして津波はまた陸上の地震になる様である。貞観十一年(八六九)五月二十六日、陸奥国に大地震があり、家屋の倒潰や圧死者が多く、津波は城下(多賀城)辺まで迫つて来て溺死するものが千三百人餘、資産苗稼(いねの苗)を流失したとある。(三代実録)天正十三年(一、五八五)五月十四日に海嘯のあつたことが本吉郡戸倉村の口碑に伝えている。慶長十六年(一、六一一)十月二十八日、陸奥国に地震の後大津波があり、波浪は岩沼附近まで襲うて、惨死者男女千七百八十三人、牛馬八十五頭に達した。なお陸中国の山田町附近・鵜住居村・大槌村・津軽石村等に最も被害が多かつた。元和二年(一、六一六)七月二十八日には仙台地方に強震があり、城壁楼塔が悉く倒れ、その後大津波があつたという。慶安二年(一、六五一)には亘理郡の東裏まで津波が襲来したと口碑に伝えている。延宝四年十月(一、六七六)には常陸国水戸、陸奥国磐城の海辺に津波があつて人畜が溺死し、屋舎が流失した。延宝五年(一、六七七)三月十二日には陸中国南部領に数十回の地震があり、地震直接の被害はなかつたが、津波に792

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