女川町誌
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出たものであり、死霊から祖霊への途には三十三年という年月が重要な供養となつていた。この弔上げによつて死霊は仏教の管理を離れて、祖霊すなはちミタマになると言う観念はかなり広く行きわたつている。しかし普通には自己の身近かな曾祖父母・祖父母を通して漠然とした先祖を感じているのであり、この為め近親死者の霊を主として取扱う仏教の方が、祖先崇拝の機能をより多く持つようになり。村氏神と各個の家々で行われる祖先崇拝との関係は薄くなつて来たのである。以上の論説は主として柳田国男監修になる民俗学辞典によつたものである。二、国家統制時代の宗教日本は昔ながらの神の国といわれたのもその為である。祖先即ち神の践み行つて来た正しい道を子孫に伝え、子孫は神を祀つて自分の行う事を奉告するとともに、行う事に過ちのない様に神の援助を乞い願つたものである。之がすなわち神ながらの道と言われたものであつた。後世になつて仏教が渡来すると朝廷でも之に帰依した人々は、聖徳太子を始め沢山あるが教法に於て多少の差があつてもつまるところ神仏が混淆する世となつたのである。孝徳天皇の御代に、唐国今の中国の制にならつて朝廷に二官八省の役所を置いた。二官とは神祇官と太政官であるが、神祇官は政庁の最上位で専ら神事祭祀の事を司つたものである。この後政権が武士の手にわたると諸制度も色々遷り変りがあり、武家政治時代には社寺奉行という役人が置かれて、神社仏閣に関する事務を執らせた。近世になつて武家政治がすたれ、将軍徳川慶喜が大政を朝廷に奉還したので、王政は古えにかえり、所謂王政維新の世となり、諸制度も古制にならつて改革され、社寺の事務は神祇官の掌る所となり、神仏混淆の両部の制度を廃止したが、のちには神祇官を廃して教部省となつて神仏二教すなわち国教の事を掌らせた。これは神仏とも宗教として取扱われる趣旨であつたようで、こゝで始めて宗教は政治から分離されるようになつた。ところが一方に神道は神ながらの道で普通の宗教でないとの724

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