女川町誌
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ることになつた。二十二年四月には再び小学校と称し、二十六年二月には新校舎を現地に建設し、同年四月塚浜分校を開設した。その後二十八年六月に至り女川第六小学校と改称し現在に至つている。独立国民学校設立の要望建議書(昭和一八年会議録)女川国民学校の横浦・塚浜両分教場を廃止し、其の中間に独立国民学校を設立せらるゝよう町村制第四十三条に依り建議候也理由本町横浦・大石原・野々浜・飯子浜・塚浜・小屋取六区通学児童は高等科修学の為には、二里二十二町乃至四里十七町の険峻なる山道を徒歩せざるべからず、依つて大正十四年以来町費補助により輸送教育(客船にて)を開始し、学区民を漸く承服せしめ今日に至りたるも、其の実情の誠に寒心にたへざるものあり、即ち一、暴風雨等の為月一、二回の欠席あり二、船の修繕又は機械の故障の為月一回平均の欠席あり三、其他海上不安の為就学せしめざる者、海上風雨にさらされつゝ通学するに禁へざる身体の者、教育に熱心ならざる者の子弟の不就学となりやすきこと、中途退学の多きこと等の不良条件あり数年前より六区民間に独立学校設立意見擡頭を見るに至れり、前三か条を統計に依つて見れば(初等科を両分教にて修了したる児童の高等科修学状况)即ち三か年の両分教場修了児童一〇四名中不就学と中途退学者合計四六名と云ふ数字を示すに至つては、町教育上由々しき問題なりと云ふべし。然るに尚此の輸送教育船に対する石油の配給は時局の影響により年と共に減じ、先きに三往復の航海をなせるものが二往復となり、更に一往復となり、而かも休航すること多く且つ航海数減少の結果、一般乗客殺到して児童の乗船不可能なること屢あり、一方石油の特配に就ては種々方策を講じたるも今や全然見込絶え何等施すべき手段なし。以上輸送教育の甚しき不良成績は町教育上一日も看過し得ざる所なるに、更に此の輸送教育すら不能なるに至つては、等しく陛下の赤子にして我々居を同じくする町民の子弟をして何等689

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