女川町誌
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の位置が問題となつて意見の一致を見なかつた。そこで横浦区会に於ては費用全額負担を決議し、更に之を横浦・大石原浜・野々浜の三区の合同提議として可決し、明治三十年二月敷地所有者木村弥五郎氏の快諾を得て之を借地とし、ここに間口七間奥行四間一尺、之に間口一間の下屋を附し、総工費七百五十余円を以て、同三十四年二月校舎が竣工したので移転した。その後年を追うて児童数も増加し、漸く校舎も狭隘を告げるに至つたので、明治四十四年五月、幅一間の廊下を北側に設け、従来の南方廊下を撤去し、南方全部を硝子窓に改造した。大正三年四月、村会の決議により、教員住宅を建築し同十一月竣工した。この住宅敷地工事の為め、校舎西偶の土取作業中、土砂が崩潰して数人がその下敷となり、その中の二名が悲惨な最後を遂げた事がある。越えて昭和十一年九月はその二十三回忌に相当るので、通学区域の三区が連合して遭難現場で慰霊祭を執行した。同九年三月校舎の大修繕を加え、設備等もまた面目を一新した。総工費千二百円の中七百円は村の負担とし、五百円は横浦区で負担した。昭和七年四月、二学級編制となつたので、職員室を取除き、三間半づつの二教室に改造し、同元年六月には又々大修繕をなし、北側全部を硝子窓とし、校舎東側に両便所を増築した。同十一年一月には女川町青年団第二支部及び横浦区実業団よりストーブ二台の寄附を受けた。同十四年四月には当分校学区域の区民(横浦・大石原浜・野々浜)全員を以て、女川小学校横浦分教場父兄会を創設した。同十六年四月には国民学校令に基いて女川国民学校横浦分教場となつた。その後昭和二十年四月、女川国民学校横浦分教場を廃止し、五部浦国民学校と改称し独立校として野々浜に開設す688

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