女川町誌
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戦後の社会状勢は物価高騰、食糧事情の窮迫のため教員を下宿においてくれるところもなく、何れも自炊生活ということになり、毎週交替で食糧運搬に帰省しなければならなかつた。最も地方によりては各員に月一日一円の補助をされたが、インフレの亢進には抗すべくもなく、且つ他職の収入条件とは雲泥の開きがある為め、郷里に転ずるとか他地方に転職するといつた工合で年度内の異動は実に甚しく、定員は一〇名中、新入四名、転勤四名、退職六名という状況であつた。教科書の不完全当時教科書は極度にひつぱくして、紙飢餓の影響と印刷困難との関係で、恰も新聞紙を綴り合わせた程度の粗末極まるもので、児童の感興をよび起すなどということは思いもよらなかつた。しかも輸送の不円滑は想像以上のものがあつた。その上教育目標もきまらず、従つて児童は自由の枠から放縦の世界へと、とび出してしまいそうであつた。昭和二十二年度四月学制の変革に伴つて女川町立出島小学校となり、高等科は廃止して三年義務制の中学校となり、女川中学校出島分教室を置いた。従前の保護者会を改組して父母教師会とし、会長に木村和吉氏、副会長に阿部八治郎氏が就任して左の事業を実施した。⑴会費の増額月額五円⑵職員の生活補助厚生策として現金二、四八〇円独身月額平均三〇〇円670

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