女川町誌
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明治四十四年五月には校舎と教員住宅とを新築して、大に地方教育上に貢献する所があつた。また寺間には分教場を置き、学齢児童を収容すると共に補習教育をも授け、其の成績が年と共に顕著となつた。本島民は生業上、従来学問に重きを置かぬばかりでなく、其の必要を感じないものの様であつたが、国民皆兵の制となり、男子の兵役に就くに及び、書を家郷に寄するにも、又生産品を日常取引するに当つても、算筆の有無による利害の明瞭なるに鑑み、特に子弟の教育を奨励するに至つた。昭和時代に入つては更に父兄の自覚も進み教育に期待する所が大となり、施設といい教員といい他部落に劣らない程度にまで進んで来た。校地及校舎次に校地及び校舎の点から、本島の教育状況を見るに、明治十九年出島区入沢に校地をまとめて校舎を新築し、十九年十二月落成して児童を収容した。当時の校地は五十四坪、校舎は二十一坪であつた。同四十四年に至り教室が狭隘を告げたので、校地を袖福に選定して同年五月校舎工事に着手し、九月竣工して児童を収容した。校舎は七十坪で、その際教員住宅をも新築した。昭和三年四月には現在の地に、移転改築して現校舎に児童を収容した。かくてこの移転改築により、従来の面目を一新した。同七年四月二十九日の天長節に当り、校長阿部正蔵と学務委員植木新作両氏の主唱で奉安殿建設の議が起り、役員を推薦し、直ちに各戸一か月五銭づつ三か年積立を実施した。武山区長・木村区長及び委員の献身的努力と地方民の赤誠と町当局の後援とによつて、奉安殿が落成したので、同年四月二十九日の佳節を卜し、町長須田金太郎主催のもとに盛大な落成式を行つた。668

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