女川町誌
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となつていたのを国民学校令は昭和十六年二月二十八日の勅令で、支那事変が進行し米英蘭の圧迫が重く、一面日・独・伊三国協定が強力になつた頃のことであるから面目躍如たるものがあらわれている。第一条国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス。とあつて、これが施行規則になると、小学校令は勅令をやゝ具体化したゞけで、国民として又個人として、更に男として女としての立場を考えているが、国民学校の施行令は皇国の道と錬成という点に重点を置き、民心統制を強からしめ、最後に男女の特性・個性・環境を顧慮せよと言つている。二、女川地方国民教育昭和十二年七月支那事変勃発して、本町よりも続々応召出征し間もなく死傷の公報が来た。遺骨が帰つて来る。厳粛なる町葬が学校で行われる。戦時気分が町内のすみずみまで浸透し、小学校から青年学校まで戦争遂行の為の教育と化してしまつたのである。当時町内の独立小学校は女川国民学校(現第一)尾浦国民学校(現第三)出島国民学校(現第四)江島国民学校(現第五)とあつて何れも青年学校を附設していた。国民学校の教育を中心として宮城県教育是の具体化に努力したことは五校とも大同小異であるが、女川国民学校の例を挙げて見るならば次の通りである。1、昭和十一年九月より十六ミリ映写機ベルナ二号を備え情操教育・理科教育を主とするフイルム(毎日ライブラリーに参加)にて毎月一回学校映写を施行した。2、昭和十二年十月より拡声機を設備して、朝会・全校訓話・全校訓練(少年団等)運動会などに使用し、又一室を設けて学校放送を児童に、教員向放送は教員に聴取せしめた。3、体育施設の強化として高鉄棒五架・低鉄棒十架・ラワン製跳箱四台・平均台四個・腰掛七〇個・マット二枚・攀登棒四647
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