女川町誌
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一方両陛下は現人神であると最高の尊敬をするようになり、御真影にも災害なからしむるため大正の頃より本県では鉄筋コンクリート建ての奉安所が出来るようになつたが、昭和に入るや益々壮重な建築様式となり神殿造りに近いものすら現れ、名称も一般に奉安殿となり、登校退出の際は誰が見て居ると否とに拘わらず、教員児童は勿論一般民衆も最敬礼するまでに普遍化するようになり、学校行事としては毎朝々礼行事として、奏楽裡に国旗を掲揚し、ついで奉安殿に向つて最敬礼をなし、訓話注意ラジオ体操等をして各教室に入り、授業終了後は国旗降下の行事があり、職員児童はその居所に直立し国旗に向つて不動の姿勢をとるのが一般小学校の状態となつてあつた。又明治以来三大節が設けられ、大正から四大節となり御真影拝賀式が最も壮重に行われたが、学校長が恭しく御開扉して一定の所まで退下するや来賓職員児童一斉に最敬礼を行い、ついで君が代を二回斉唱し学校長は教育に関する勅語を奉読し誨告をして来たのであるが、昭和十年以後になるとそれが一層壮重になり、皇室の弥栄を説き国家の隆昌を寿ほぎ、而かも国民道徳の中心忠と孝に徹せねばならぬと説いたのである。万葉集の「海行かば水漬く屍山行かば草むす屍大君のへにこそ死なめかへり見はせじ」が軍隊では克く説かれ、小学校の唱歌にまで歌われるようになつた。日本のこの国情に対し、第一次大戦に破れた独乙がヒットラーユーゲント運動が華々しくなり、中にも団体訓練とか体育とか社会奉仕愛国活動などは、当時の我国の青少年活動に影響する所少なからざるものがあり、小学校に於いても少年団が盛んになつて社会奉仕・勤労作業・愛国的活動等が行われるようになつた。それが支那事変の勃発、日独伊三国協定等によつて一層拍車をかけられ、挙げて国策遂行の教育否戦勝獲得の為めの教育というようになり、而かも之に対して大きい波紋を起す言論も行動も見られなかつた。本県は昭和十三年六月宮城県教育是を制定し、県訓645

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