女川町誌
709/1094

更にこれが青年学校と改められた。併ながら、高等学校を経て大学への途は一般中学校を経るのが定石であり、補習学校よりの途は全くなかつた。その後、青年学校よりの進学の道は開かれたが、実科方面を主とした修学の学校生活なので事実上殆ど入学はできなかつた。本町にはこれ等の教育機関の内、小学校(国民学校)と共に補習学校・青年訓練所・青年学校が公立として経営され、多くの青少年の指導がなされたが、中等学校以上の教育を受けるには、都会の学校に行かなければならなかつた。五、教育改革と六・三制明治維新は、我が国を久しい鎖国主義から解放し、欧米の文化から数段の遅れを挽回しようとして教育制度を立てたので、専ら仏国及び米国制度の模倣で、内容も欧化主義を採り初めは教科書も彼の国の翻訳そのまゝでさえあつた。従つて日本古来の良風も次第にいやしめられ、果ては全く破壊されてしもう様な状態に陥つた。そこで、この方面への批判が高まり、明治十八年(文部大臣森有礼)頃から欧化主義に反抗し、国粋保存を唱導する学者が輩出し、やがて帝国憲法の発布により立憲国の基礎が確立すると共に明治二十三年十月三十日、明治天皇は教育に関する勅語を発した。これは我が国の教育の根源は、皇祖や歴代天皇の遺訓に基ずき忠孝を一本にして行えとの趣意であつて、その後長く国民教育や、道徳教育などの諸教育の基幹となつたのである。併し之が日露戦争・第一次世界大戦を経て我が国が戦勝国として発展するに随い、往々にし軍国主義者たちに利用され、満州事変次いで支那事変が起り、第二次世界戦争に拡大されようとするに際し、遂に小学校制度を改変して、国民学校と称し我が国教育の目的は皇国の道に則り皇国民の基礎的錬成にあるとして、国民を戦時体制に導いたの639

元のページ  ../index.html#709

このブックを見る