女川町誌
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教員二名生徒五十六人第百一小学区石浜小学校明治六年五月廿日開校教員二名生徒二十九人第百二小学区出島小学校明治六年五月廿日開校教員二名生徒五十四人内男五十二名女二名第百三小学校区江ノ島小学校(当時出島小学校に合併)小学区の番号は第二中学区百三小学区の通す番号で、横浦小学校が九十九小学区の小学校で、江島は百三小学区の小学校ということであり、開校年月日は浦宿小学校の明治六年四月廿五日を始とし、他は五月廿日となつている。生徒数は浦宿小学校の五十六人を最高に、浦宿はその半数に達しない二十五人、教員は大体二名宛を配置している。小学校を開設した当時は、子弟を持つ父兄が新教育を理解し、進んで、就学せしめるものも少なかつたので、当局者はそれぞれ入学の勧誘に奔走したのである。然るに戊辰戦乱の後なので士族は扶禄を減少され、また商工者はその職を失つて生活に惑うていた折なので、就学希望者は極めて少なかつた。それに当時の学科の程度や教授法などが従来と異なつていたので、一般父兄の中には之を怪んで、子弟の就学を拒んだものもあつた。当時の世人が学校と病院とを酷評して「盲目ならば学校、死なば病院」といつたということである。そして当時の教授法は大体全生徒を年齢の多少によつて三組或は四組に分け、単語篇(漢字)と万国々尽を暗読的に教授し、算術は珠算とを併せて教授した。また習字は生徒各自に手本を与えて大字を主として習わしめた。学校の経費は文部省の委託扶助金並に学校税(一戸金二十五銭を課す)有志寄附金などからなり、大区々長が之を管理した。当時仮教師一名の月俸は金弐円、助教一名金一円或は七十五銭で、授業料は一人一か月上等金拾弐銭、下637
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