女川町誌
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ず才芸の長ぜずして貧乏破産喪家の徒多きゆゑんなり。是故に人たるものは学ばずんばあるべからず、之に依て今般文部省に於て学制を定め、追々教則をも改正し布告に及ぶべきにつき、自今以後一般の人民(華士族農工商及婦女子)必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す。人の父兄たるもの宜しく此意を体認し、其愛育の情を厚くし、其子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるものなり。と仰せ出されて学問の必要を説き、特に邑に不学の戸がなく、家に不学の人がなき様にと力強く勧められた。かくて学制をフランスのそれに取り、全国を初め八大学区二百五十六の中学区、五万三千七百六十の小学区(一中学区につき二百十小学区)に区分して各区には総てそれぞれ大学校・中学校・小学校を設置せしめることゝした。当時小学校は人口六百に対して一校、中学校は人口十三万に対して一校を置く割合であつた。しかしながら、明治十年に至つても、小学校の数は、二万五千四百五十九に過ぎなかつた。従つてその趣旨がなお十分に徹底するに至らなかつたのである。二、本県管内の学校開設明治五年二月仙台県を宮城県と改称し、新に置県立庁したので、養賢堂の仮校舎をも旧県庁舎と共に接収されたので、遂に学校を廃止するに至つた。なおこの年文部省第十三号を以て、府県設置の学校を廃止すべき布令があつたので、悉く之を廃止したのである。翌六年に至り、太政官布告(明治五年七月第二百十四号)及び文部省が頒布する所の学制(同年同月第十三号)に基いて、宮城県管内を三中学区、二百三十小学区に分ち、毎小学区に一小学校を設けることゝなり、本県には公立小学校を二百二十六校設置した。635

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