女川町誌
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二個所、本県地方に五六七個所を数えている。そして奥羽地方では本県が最も多く登録されている。就中仙台地方で最も古いものは宮城郡利府本郷の士である笹町俊則の笹町塾で、元和四年の開業となつている。その次は同郡同郷の修験者である富士渓左岐雄の富士渓塾で、その創始は元禄三年といわれ、次は志田郡大迫村の医師山岸定俊の山岸塾で、その創設は元禄年間となつている。その他遠田郡沼部村の士遠山清の遠山塾が、寛保三年の開業と伝えている。天明・寛政以後は、その開業が引続き次第に増加し、天保年間の開業にかゝるものが、実に百六十有二の多きに及んでいる。 そして寺子屋の多くは寺院または民家を手習所に使用し、師匠としては武士・僧侶・医師・修験・神官などがその任に当つた。手習所の名称は何々塾・何々堂・何々館・何々舎と称し、寺院以外でも生徒を寺子といゝ、入学を寺入といつた。就学の年齢は一定しないが、六・七才から十五・六才までゞあつた。 仙台地方の寺子屋に於て特色と見られることは、師匠に武士の多かつたことである。しかし大身の武士は殆どなく、大抵は郷士・陪臣、その他微禄の士分の者であつた。また寺子屋の教育の内容は藩学や郷学に近く、且つ師匠の教権がよく確立していた。女子の就学が割合に多かつたことも、その特色の一つに数えあげることが出来る。 二、女川地方の寺子屋 明治維新前後の寺子屋教員を、女川地方について見るに、次の仙台藩内私塾寺子屋表抜萃の通りであつた。女川組二十浜の中の横浦外八か所に私塾が開設され、名称は総て何々塾と呼び、学科は読書・習字を主とした、開業は弘化・嘉永の年代で、明治初年にまで及んだ。生徒は大体五十人程度で、師匠は総て武士であつた。是等の師匠の多くは明治時代に入り、地方教育の先覚者となり、またその塾舎が教育所として一時利用されたものもある。 632

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