女川町誌
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倍、二十四年は二百二十二倍と急上昇を示したが、地方財政の実質的指数は逆に昭和二十三年は、昭和九―十一年の六六%に低落したと言われている。如何に困難な地方財政であつたかがうかがわれる。一方に於いてはこれに対応するために財政制度の改革も行われたのであるが、到底このインフレには追いつけず、地方団体は各種税の超過課税や、不適当な容体に対し法定外独立税の設定等によつて財源の確保にあせつたが、現実は苦難の一途を辿るのみであつた。而してこのインフレの重圧を最もきびしく受けたのは職員の給与面であつたと思う。給与費が財政比率から見ると、高率を示しているにも拘わらず、その生活はインフレの波に押しまくられ、昭和二十二、三年当時本町に於ける中堅職員の給与は、一家の主食費を賄うに足らず、止むなく転職するものが多く、この状態はまた全国的のものであつた。その結果全国的に行政能力の低下を招いだ事は普く唱えられた所である。その後地方公務員の給与は国家公務員に準じ、昭和二十二年から二十九年までに平均六百円から一万五千円程度まで、十数次にわたつてベースの改訂があり、どうやら町職員の給与面も改善されたが同時に給与累増による地方財政は極めて深刻な重圧を受けることとなつたのである。三、地方制度の改革次に地方制度は以上の如き地方財政を背景としつゝも、戦後の要請に応じて中央集権より地方分権となり、劃期的な変革を遂げ、行政内容も大巾に拡大された。即ち知事・市町村長等の首長は一躍公選となり、各種選挙制度の改正・選挙管理委員会・農地委員会・教育委員会・公安委員会等の数多き委員会の設定・各種行政機構の拡充・警察制度の改正・消防制度の強化・生活保護法等福祉行政の改善・衛生行政の充実、殊に六三制教育制度の実施等、一大変革による財政需用の増大を来たしたのであるが、これに対し適切な財源の裏付がなく、窮乏の極、地方財政の自主性が失619
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