女川町誌
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さて、今の女川町の全地域が、女川と称されたのは明治二十二年五月一日町村制実施の際のことである。それまでは、女川の地名は、今の字女川の部落に限られていた。この女川の地名の由来を尋ねるに、女川町の背後に黒森山があり、この山の奥地に安野平あのたいらという部落がある。ここから流れる渓流を女川と呼んでいる。往昔安倍貞任の軍が隣村稲井の館で、源氏方の軍勢と戦つた時、一族の婦女子を安全地帯である安野平に避難させたので、この小川を女川という様になつたという。それが後世下流の部落名が女川となり、また女川湾と呼ばれ、更にこの女川の地に大肝入丹野家が居住していたので、村名にまでなつたものと伝えられている。女川または女川湾の名が、広く世人に知られたのは、明治十八年五月英国のハミルトン将軍の率いる東洋艦隊が始めて女川湾に入港して以来のことである。当時この大艦隊が楽々と碇泊したので、一時に天然の良港として世界に紹介されたのである。これが起因となり、翌十九年政府は女川湾―万石浦―石巻港―定川―松島湾―塩釜港を結ぶ運河の大構想を取上げたが、実現するに至らなかつた。しかし地元女川村民の築港への希望は、これを契機として次第に高まり明治二十八年以来、特に民間人の手により、初めて女川湾頭の埋立事業が計画実施された。かくて現在まで実に八万坪余の埋立が行われ、為に人口は頓に増加し、一萬八千余人を数えるに至つた。その後次第に女川港は、埠頭を始め魚市場・倉庫等の施設が整備して、湾港としての価値が愈々認められ、日本水産株式会社女川支社などの捕鯨工場も進出して来たので、女川駅より臨港線を北岸の石浜まで延長するその計画も実現し、更に尾浦・御前浜を経て、雄勝町への大道路の開鑿工事や、大原県道の改修も着々として進捗している。一面、町政は要路にそれぞれ人を得て、正しい軌道に乗り、町財政の運営に、産業経済の振興に、教育文化の更新3

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