女川町誌
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民生委員制度は、昭和十二年宮城県令を以て、方面委員会が設けられた時に始つている。女川町では、この県令に基いてこの方面委員を置いたのは、須田町長時代で、当時の村会に諮り二名の委員が嘱託されている。一方県には社会事業協会が創設されて方面委員連盟会が生れ、会長には仙台市の国安泰嶺氏が選ばれて事業の発展に尽力され、この年十年全国方面委員第三回総会が仙台市に開かれ、同時に第一回宮城県方面委員会の総会が開かれたのであつた。この席上全国連盟会長原泰一氏の講演があつたが、日本でこの事業の先駆となつたのは、大正六年岡山県に出来た済生会である。ついで翌七年には大阪府に方面委員会が生れ、続いて全国各地に普及し、宮城県では大正十年十二月、社会奉仕委員として発足して居る。何れも篤志者の義挙によつて出来たもので、世界に誇るに足るものだと述べられた。当時は委員の数も少く、思う通りの活動も出来なかつたけれども、寄辺のない不遇の人々で、この愛の手に救われた数は少ないものではなかつた。昭和八年三陸沿岸の大津浪当時などには、各市町村から多大の金品が義捐されて救済されたが、其動力となつて働いたのは奉仕委員であつた。これ等の活動がだんだんと社会の認める所となつて、之を各町村に普及設置されたいという要望の声が高くなり、遂に県令となつて現われたのは前記の通りである。町内の不遇者を調査し、生活扶助や医療扶助等の手続やら給与等について、色々と奔走をして幾多の人が救われたか枚挙に遑がない程である。昭和十二年支那事変が勃発し引続いて大東亜戦争となり、国民が挙げて戦争に参加したので、出征軍人家族中には働き手がなくなつて、生活に困窮するものが多くなり、生活扶助や医療救護を必要とするもの及び、其外名誉の戦死、病歿する軍人も続々と出て来るので、之等遺家族に対しての手当其他の世話に、全力をあげて奮闘したが、何せその手では持ち切れなくなり、手落ちがあつては申訳がないので、町当局と相談して、各区に相談補助員を置いて手伝つてもらつたので、大いに助かり、完全な業務を取扱うことが出来たのであつた。563

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