女川町誌
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二、民主々義の実現日本がポッダム宣言を実行する為には、何によりも憲法が、民主化されねばならないので、昭和二十一年二月政府は憲法改正に着手し、内外の世論や反響によつて徹底した民主憲法として十一月三日に公布、翌二十二年五月三日から実施となり、日本は永久に戦争をしない平和愛好の文化国家である事を中外に宣言すると共に、主権は国民にあつて、天皇は国の政治には関係されない日本国民統合の象徴となり、又我々の個人的権利である自由と平等とは保障されることになつた。このようにして軍国日本が、民主々義日本に早がわりしたので、公職追放は解除され、アメリカは対日講和を急ぎ、昭和二十六年九月、米国サンフランシスコに於て対日講和条約の調印式を行い、翌二十七年四月二十八日を以てその効力が発生したので、終戦後七か年目に日本は再び独立国家として世界に肩をならべる様になつたのである。こうした急激な変化にともなつて、町の政治機構や教育施設、其他万般にわたつて著しい変化のあつた事は当然である。かくて民主々義が戦時中の「国体明徴」に代つて大流行となり、各地にその講演や会合が行われた。労働組合は雨後の筍のように生れ、県内だけでも四百以上に達した。男女平等で婦人の参政権が認められ、学校も共学になり、婦人の課長さんや校長さんも現れた。六・三制という、新しい学校制度が、戦後窮乏の真中(昭二二年)に実施され、各町村に中学校が生れた。義務教育年限延長は、過去何十年となく叫ばれながら実施出来なかつたのだが、奇しくも敗戦を機会に実現したのである。急激な変化で教科内容も方法もしばらく板につかなかつたのは無理のないことである。三、選挙管理委員会558
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