女川町誌
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これに対して大蔵省は県に命じて調査せしめ、発起人の身許・出資金割合などについて書類を提出せしめた後、十二月二十七日に許可書を与えられた。かくて第四十六国銀行として仙台に設立し、株式を募集し、改めて営業許可を得たのち開業するという段取りとなつた。二、士族会議の打開策前述の如く銀行条例改正後、宮城県内の銀行設立の動きは前項の通りであるが、金禄公債交付を受ける士族に対して、もつと多くの対策を考えられねばならなかつた。そこで県の斡旋で管下の全士族の会議を開いて相談することになつた。十年三月からその方法を考え、議員選出方法を定めて、一〇〇戸に一人の割合で五四名の議員を選出し、十一月一日から士族会議を開いた。士族会議は出席三四名、議長遠藤温・副議長氏家厚時の下に、増田繁幸や、県役員の傍聴で開かれ、禄制改革にとものう金禄公債交付についてこれを保存しなければ、士族の困窮没落必至なる故に、全士族は結社して打開策を立てるべきであるとし、その策について議論が交わされた。そして具体案として、第一に出たのが銀行設立案であつた。そこで小委員会を作り、銀行案を立てたのであるが、それは有禄士族の金禄公債を集めて資本金とし、その公債の利子は所有者に払い、資本の運転については貸付や商業、開拓などを自ら行うということにし、それによつて得た利益は銀行利益として公債所有者には分けないという計画のものであつた。そして翌十一年一月の士族会議に於て、士族結社の社長に増田繁幸、副社長に氏家厚時が就任し、銀行設立、委員選出と具体化に進んだ。三、七十七銀行の進展士族会議の打開方針に基き、明治十一年二月増田繁幸・亘理隆胤・松前広致・中島信成・後藤充康・氏家厚時等を511

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