女川町誌
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ことになつた。それまでの主なるものは開墾と銀行設置との産業資金貸付であつた。銀行について見るにその設置に際して士族は所有金禄を株式に変えることができ、一挙に禄を失うことにはならなかつたが、零細な株主になつただけでは結局その配当で生活することはできず、売買自由の株券などはどしどし小数の株主に吸収されていつたから、銀行の発達は別に士族の生活を保証したわけではない。銀行は士族の禄、国民負担の公債を根拠とし、利源として発達し、士族はどうでもよくなつてしまつた。同じことが開墾についてもいいうる、開墾地そのものは成長していつても士族がすべて自作農になつてつゞいたわけではない。産業会社はつぶれなくとも士族のものではなくなつた。殖産興業の諸結果はかくてそれ自らの成長してゆくので、士族は士族たる故の特権を失つた。これを一方からいうと士族授産のためにも、また殖産興業一般についても、公債または政府資金の貸付や給与で資本主義生産様式が育てられたということで、その結果は一度は士族に与えられた公債も士録の手にとゞまらず、かえつて士族の禄権を奪いやすくしたわけである。要するに国民の負担において旧封建力の一掃と新産業株式、新しい資本家の育成が行われたということである。つまりは封建的土地所有者としての武家農家を分解させながら、新しい土地所有者・資本家を育てゝいつたということになるので、明治政府はその転回の中心にあり、促進者の地位にあつたという結果になるのである。かくて士族は市民化し、封建武士団を解消し、土地からの放出を一気にせずして、二十年代ころまでに完了したということである。三、銀行設立の機運明治九年に至り禄制が廃止された。禄制廃止に伴つて華士族に給与された金禄公債は千七百円に達した。そのこと508

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