女川町誌
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る。更に明治六年には百石以下のものに禄の奉還を許し、奉還者には産業資金として四か年分から六か年分の禄に当る現金と公債とを一時に与えることにした。翌七年には百石以上のものにもそれを及ぼすことにし、内国債として秩禄公債を発行した。翌八年には禄を金に換算して金禄とし、同九年には数か年分の禄を金禄公債として与え、禄制を全面的に廃止した。維新による打撃と引き続く禄制の改革、廃止の進行で士族の困窮は当然に深められた。大部分は「失業したわけだつた」禄生活者である。その禄が減少した上米で与えられ、また公債で与えられるにいたつた。進行しつゝある経済的変化によつても、米も公債も相場は変動するし、貨幣価値も変るので、土地を所有していた時とちがうので、非常な不安定な生活を余儀なくされた。それで維新の当初、政府も各藩も旧家臣の帰農に努力したのはその第一歩であつた。一面明治元年には早くも蝦夷地の開拓が計画され、各藩から大規模の藩士の移住が行われたが、二年には民部省に開墾局がおかれ、官有地を無償または安価に払下げ、開墾費用を補給したり、貸下げる方策がとられた。三年に士族の帰農出願者に一時賜金を与えられ、四年に職業の自由選択を許し、六年七年に還禄士族に産業資金を与えたものも禄制廃止の方針を進めながら、士族に新しい職業につかしめる為であつた。士族の授産は初期のそれを受けて十年代に入つて、組織的・積極的となり、府県の士族の結社に事業資金を貸与する方法がとられ、諸会社ができたこと、宮城県にも士族の結社や士族興産組合の事業などができた。この間に殖産興業の結果は、だんだん実を結んできたし、特に士族を別扱いにすることもなくなつた。明治二十二年にはもう打切る507

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