女川町誌
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は削封されただけで残つた領地は減らされながらも、仙台藩は一時は続いたのである。明治四年になつて廃藩置県により仙台藩となり、同五年に宮城県となり、九年に至り現在の範囲をもつ宮城県となつた。二、士族禄制の改革明治二年の版籍奉還、四年の廃藩置県と漸を追つて封建権力を退け、武家の土地支配権を禄制改革によつて奪い、四民平等のスローガンの下に身分制を廃止し、職業の自由・土地の私有権・私有財産権等を確立し、この間に近代的市民社会の形成と国民経済の成立とを育成した。そしてこの様な条件をつくりつつ資本主義生産様式を急速に輸入し、且つ「富国強兵、殖産興業」の合言葉で、先進諸国に追いついて行こうとしたのである。右の様に明治政府としては、まず資本主義生産様式の確立に努め、原始的畜産の過程をおし進め、封建的武家と農民とを解体分化し、同時に機械工場の輸入育成を図るという様に、あわただしくまた熱心な努力を続けなければならなかつた。一方版籍奉還後は旧各藩候は、それぞれその藩の知事に任ぜられた。そして今までの藩高の十分の一を家禄として給されることとなり、その各藩士の禄も知事の家禄に準じて与えられた。この際の禄は総て廩米で給与したので、土地所有の性格を失うことになつた。同時に複雑であつた階層も、単純化されて公家諸候は華族と士族とに整理された。明治三年には藩制を定めて前述の様に藩高の十分の一を知事の家禄とし、残高の十分の一を陸海軍費とし、その残りを藩費と士族の家禄とした。その上この年士族の帰農出願者に対し、五か年分の禄を一時に賜金として与えることとして士族の減少を図つた。また明治四年には廃藩置県が断行され大名領国制と言う独立的な封建国家は近代国家として郡県制に変化をとげたのであ506

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