女川町誌
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繭高は約一万貫で、桃生・牡鹿地方に於ては一、二位の養蚕町となつていた。その後支那事変の勃発により、労力不足と繭価の下落とにより漸減し、昭和十五年には一〇九戸、収繭高六、一〇〇貫となつた。翌十六年以降は生糸の輸出が不能となつたので、繭価は甚だしく下落し養蚕業は自ら不振となつた。一方食糧増産に迫られたので、急激な減少を来し、昭和二十六年に於ては養蚕家の実戸数は僅かに二十五戸、収繭高は昭和五年の七%に止まつている。昭和五年に於て本町の養蚕実戸数は一八四戸、収繭高約一万貫であつたが、支那事変以来漸次減少し最近に至り稍増加している。春蚕・夏秋蚕収繭高(昭和二七年度)註養蚕家戸数二八戸春蚕夏秋蚕掃立卵量及収繭高(昭和二九年度)465

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