女川町誌
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軍閥内閣にかわつて、日本最初の政党内閣たる原敬政友会内閣が生まれ、選挙権の拡張その他ある程度の政治的自由の拡大をみた。こういう条件のもとに以後労働者・農民・水平社・婦人・学生・普選運動など一切の大衆運動・社会運動が開花した。また米運動は世界史的には翌年の三・一、朝鮮独立闘争五・四運動などと関連して、ともにロシア社会主義革命の波動の一つをなし、資本主義の全般的危機が日本において始まつたことを示すものであつた。三、石巻の米騒動其の当時の魚の町女川は、石巻を経済基地として米其他の物資を取引きしてた故に、石巻の米騒動は可成の影響があつたが、思想行動に於て積極的でない漁師らは自ら苦しみつゝも只話として聞くのみであつた。自らは南京米を食いつゝも、然も地主も持たず網元も持たぬ故にかゝり様もない。此の時の影響として、木村喜八氏が貧民の為といつて、金四十円を寄附した事が女川村の議事録に上つている。大正七年八月十三・四日両夜に亘つて石巻町内枢要の各所に不穏の貼紙があつて民心恟々とした。越えて十六日午前九時十五分坂下町不動堂内の梵鐘を乱打し、青物市場及び永岩寺前の空地に集合した群集は当時一千人位と伝えた。石巻警察署長村上警部は穏かに解散を命じたが、是に応じないで遂に米商佐々木伝兵衛宅に突進して石を投げ戸を破つて開いた。そして日本米一升二十五銭(此の日白米一升四十二銭)に廉売せよと迫り、次いで立町の米沢・宮城の米店より鴇田米店を襲い、二十銭に廉売せしめることを諾させ、穀町・新田町・横町・旭町・住吉町・門脇の米店に殺到して皆廉売の約束をなさせた、偶々警官が梵鐘を乱打した壮漢を捕え之を拉し去つた。暴徒が之を奪還しようとして警察に迫り電燈線を切断して暗黒ならしめ重要書類を破棄して散乱する等暴行至らざる所がなかつた。時に午前四時東天漸く白く鶏鳴四方に起る。是に於て暴徒は三々五々姿を晦した。時人は称して之を石巻の米騒動と460

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