女川町誌
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と石浜の勇蔵日誌に見える。二、大正七年の米騒動時代ははるかに下つて一九一八年(大正七年)日本資本主義の矛盾の激化が其の頂点に達し、富山の漁村を発祥地として米騰貴を直接の契機とする民衆運動が日本全国をあおり米騒動が勃発した。第一次世界大戦中の日本資本主義は急速に発展したが、内部矛盾も急速にすゝみ深刻となつた。即ち日本資本主義の発展は生産力の増大によるよりは、むしろ政府のインフレ政策に助長されたものであつた。一九一八年には無産大衆の実質収入は戦前の七〇%以下に低下した(労働者平均日給九二銭)ところが米価は一升五〇銭に達し、民衆にはなはだしい生活難をもたらした。この値上りは凶作によるものではなく、直接にはシベリヤ出兵をみこしたことによる。地主と米商人の投機によるものでなく、その根源は資本主義と半封建的寄生地主制との矛盾であつた。すなわち寄生地主制のもとでは、第一に労働者の増加と都市の発展に伴う米の需要の増大に対して生産を急速に増加させることができなかつた。第二に政府の地主保護によつて外米輸入の処置がとれずこのため急速な食糧危機がひきおこされたのである。第三そして生活難に落入つた民衆の思想や気分も、日露戦争の日比谷焼打事件、護憲運動デモなどの経験やロシア革命の影響、民主主義思想の滲透を経ることによつて大きな変化を生みこゝに空前の大米騒動となつたのである。そして此の新思想が文化的に封建的な辺境地帯と見られる富山へどうして早く吸集されたかという疑問を解くカギは、売薬行商にある。文化の伝携者としての「富山のクスリ屋さん」たちは、そうした新思想をいちはやく郷里に持ち帰つたのである。富山の米騒動の中心地が売薬業の中心地と一致していることに注目しなければならない。458

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