女川町誌
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以上享保より天保迄の通達をあげたが、之が徹底は仲々難義であつたらしい。女川村は米産地でないから買う方のみに手数を労したわけである。かくして旧藩時代は塩の如きも統制にかゝつて、我等の祖先は自由には出来なかつた次第である。五、塩田の経営当地海岸には各地に塩田の経営された形跡がある。石巻大鉤の領首川村孫兵衛が塩釜を設けたことから釜の地名が起つたと伝えられている。しかし藩政以来引続き維新以後に及んだのは、渡波・流留の万石浦の塩田と大川村長面湾の塩田である。万石浦の製塩は寛永二年流留の人菊地与惣右衛門が藩の内諭を受け、下総国行徳の塩田を調査しそれに倣つて創業し藩直営のもとに製塩を行つたが、寛政の頃民業に移つて以後は藩に於いて製品を買い上げる事になつた。恰かも今日の専売制度と同様であつたが、渡波・石巻・長面・鹿又等の各所にお塩蔵を設け、こゝに貯蔵の上川筋及び陸路を通じて領内に配給販売したのである。454

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