女川町誌
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四代網村公の末年にいたり藩財政が窮迫し、買米本金の支出が困難になり買米制度は中絶してあつたが、五代吉村公の時代に石川理兵衛の議を容れ、祖法の恢復を図り享保年中御買米金拾万両の本金を用意して復興した。即ち米の自由売買を厳禁して藩の買上米は年貢米と共に、まず領内三十五の米蔵へ納められた。これを北上川を始めとして各河川や舟堀を利用し、髙瀬舟や平田舟で石巻の大米蔵へ集め、更に六百石から八百石積の登石船で海上を江戸に運んだ。享保二十年の頃領内にて金壱両に米二石四斗つゝを買い上げ、此年西国凶歉の為江戸米価騰貴金壱両に五斗台に売払い一時に五十万両を得た。是より宝暦の頃まで御買米の金盛時代が続いたのであつた。この時吉村公の意図は藩財政の窮乏直しであつたから、従来の希望に任意貸付は一転して強制的なものになつた。農民余剰米の独占的な買占政策と転化した、即ち買米は専買営利事業に変貌したのである。それに元禄前後から全国的に新田開発が進み、各藩の江戸廻米事業も盛んになつて来た。即ち東海海運による秋田米や南部米の江戸進出が始まつて思わしくない状態となり、仙台米の江戸市場における独占的地位も次第に低下して来た。必然的に仙台藩をして多量の米を低廉に移出する必要に迫られ、これが強制供出的な買米制度の性格転換を余儀なくさせた原因であつた。その後宝暦五、六年には封内五十四万石の減収を招いた。いわゆる宝暦の大凶荒があり、宝暦六、七年に重村公が封をつぐに及び、買米を根幹とした自給自足の財政方針を抛棄して、大阪商人との連結による借金政策で宝暦凶荒以後の財政困難を切り抜けることになつた。金利貸本の圧力が藩政の中枢に根強く喰込んで来たのは此の時からで、前金制による買米は中止され、営利のみを目標として、現金買に転向した、現金買の資金は多小の相異があつたが、大体五万両前後で、藩では北上川流域の諸郡を対象にあらかじめ郡村に買米の予定高を割付け、時相場よりも値を下げ444
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