女川町誌
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湊辺の町場に米はないと言われて帰つては、粟稗ばかり食つては歎かはしいから、玄米問屋に無い時は搗屋々々で通帳につけ、御改所にて御首尾を合せて下さいどうぞ願ますと言う訳である。一、政宗時代の米制政策伊達政宗以来北上川の改修流域地帯の新田開発が進み、領内米穀の産額は漸時増加していつた。増産された米穀は政宗の政策により之を一定の倉庫に保管し、石巻其他の港津より東海を航行して新興都市江戸深川なる倉庫に輸送した。是を売つて莫大な利潤を得て藩財政の基礎を成したのである。故に北上川は一に舟運、二に豊富なる米産地を包含する最も重要なる河川と称され、仙台藩の生命線であつた。仙台藩の財政は米穀をその主体として行われ、実に此の川はまた米の生命線であつたのである。当時仙台領内の米は「仙台米」又は「本石米」の名称で呼ばれ、これを農民は又「御買上米」又は「貢米」をも同時に廻送する故に「御城米」とも呼んでいた。その品質の格付は上の部に属してあつた。政宗公が岩手山城より仙台城に移つた慶長七、八年頃より買米制度が行われた最初の輸出港は小淵であつたという。その後北上川の開鑿が寛永三年(一、六二六)に竣功したので、以後石巻港は盛んな輸出港となつた。当時江戸市中442

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