女川町誌
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第三節藩政時代の米穀統制浜方女川組と呼ばれた女川地方は、古来住民の大半が漁を以て生業として来たので、浦宿・大沢・針浜・御前浜・塚浜以外の部落に於ては大体米作をしていなかつた。従つて女川村内の米産を以てしては、到底全区域の住民の食料とするには足らなかつた。従つて住民の日常生活必需品として購入する物資の大部分は米穀であつた。そして藩政時代女川地方で米を買入れることは容易でなかつた。それは当時藩に於ける米の統制はなかなかに厳重であつたからである。出島の開発者たる須田栄七氏の祖は肝入であつたが、密米の科により罪を得、弟たる須田金太郎氏の祖が肝入の後を継ぎ、寛永五年より天保六年に至る約二百年間肝入に任じたとある、密米とは藩の統制をくぐる事である。米を買うには先ず通帳に石数を記載し、石巻仲瀬の検査所の検閲を経なければならなかつた。そして脱穀役人に対しては路上と雖検閲を拒むことはできない掟であつた。そんな手続をふんで買う米であつたのに当時の米商は之を奇貨とし、故らに粗悪の米穀を混入し、或は湿潤せしめて数量を増し、売惜しみを為して高価に買わしめる等の所業を為していた。441

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