女川町誌
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とにする。明治二十五年米作改良には浦宿阿部武太夫が良好、御前・飯子浜の農業は良成績であつた。養蚕には御前浜・浦宿浜・横浦に蚕糸組合事務所より雇の女工が出張して製糸を教えた。産牛馬は二十五年十二月末日、牡馬総数百六十一、毎年奨励して多産を期するとある。明治三十三年養蚕業の発達を図り稚蚕飼育所を設け、教師を雇聘して種々教授を受けるなど、奨励法を施した為に飼育者の増加を見た。明治三十五年石浜に種蚕飼育場を設置し、各浜には教師を巡回なさしめて飼育方法を伝習せしめたので、何れも競うて之に励み、年一年と盛大に趣き良成績を見るに至つた。明治三十八年この前後は冷害不作であるが、本年は天候不順女川町は皆無であると記録している。明治四十年作付反別三十四町五反収穫高五百九十石。前年に比し百六十二石増収を得た。又浦宿・大沢に稚蚕共同飼育場を設置したので、成績が良好で全村飼育戸数百十九、掃立枚数百四十一枚収量百三十六石とある。明治四十一年春季稚蚕飼育場を御前浜に置き、秋季稚蚕飼育場を尾浦に置いた。又石浜に於ては古藤教師を聘して蚕業講習会を開いた処講習を受けたる者が六十一名もあつた。明治四十二年米作改良は本県農会郡農会の指導奨励と共に、種籾の塩水撰を実施せしめ、更に短冊形苗代及正条植を励行し、螟虫駆除にも努めたので、其の収穫が大に増加し、益々之を励行しようと企図するに至つた。県農会の計画した苗代品評会に於て、本町で商品を授与したもの十名、賞状を受けたものが一名であつた。正条植は本村内に於て実行したものは百分の八十五に達し、本郡で最高成績を占めた。麦作本村内畑反別百二十町余、収穫得失に関係ある重大なる主食料品なので、漸次之れが種麦を改良し、其増収を図る必要があるので、村内十四か所に於て半島地方適当麦種子蒔付を奨425

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