女川町誌
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明治初年頃の各部落の農家は、恐らく藩政時代より世襲の農家であつたと思われるが、明治五年に農民の転業の自由が許され、且つ女川地方の生業の実情より漁業に転ずることが生活上有利なので、漸次農業を主とする農家の数が減少したのである。のみならず明治六年まで納税は物納であつたが、それが金納の制に変つたので、農家としては現金を取る必要が生じた。そこで勢い漁業にも携わることになつたものと見られる。なおその後明治二十五年頃より養蚕が盛んになり、農家で現金を手にするには養蚕を行うに如くはないと、吾も吾もと養蚕業に手を出したのである。また浦宿とか針浜などの部落は漁業といつても名ばかりで、自ら富豪から金を借り、田地は転々として名義が代つていつたというのが、明治初年から中年頃の零細農家の実状であつた。かくてその後幾多の変遷を経、八十年後の昭和二十七年には前表の様に、大半の部落は著しく農家の数を減じて百十二戸となつたのが、女川町の農業の姿である。三、明治初年の地租割賦次に掲載する明治六年の地租上納割賦と壬申(明治五年)租税皆済目録とは、物納より金納に代る過渡期の記録として現存するものである。田や畑に対しては米とか大豆を以て地租の対象として割当ているが、海上税・転工税・狩猟税並に商業免許税などは金銭を以て賦課しているのである。現在高白浜・大石原・横浦・飯子浜・野々浜などの記録が残つているから、次に地租上納割賦を転載して参考の資とする。422
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