女川町誌
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の地は五倍の五段歩に相当するのである。畑の方は貞享元年の定目で左の如くに定められている。これは半分が大豆で半分は代金で収納される。これを「半穀半代」と称している。後新田の自発其他の地所の異動により石高の移動を生じた為、享保年間に再び丈量して各村毎に其の数量を明記した。但し枡には二種あつて、百姓より年貢取り立ての枡を「納め枡」と称し、藩が米を市場に売り出す時に使用する枡を「払い枡」といつた。払い枡と納め枡との差は入口で二分深さでは一分の差があり、体積においては自ら差が生ずる。(宮城県史より採録)第二節明治以後の農業一、女川町農業の現状昭和三十一年度の調査によれば、女川町の土地は次の様になつている。右の表によつて見ると、耕地は僅かに二一九・八町に過ぎない。概して三陸沿岸や牡鹿半島の地域には耕地が少なく、隣町牡鹿町は二六九・九町、雄勝町は一八九町となつている。その割合に山林原野の面積が広く、屈曲の多い海岸に臨んでいるのがこの地方の特徴である。従つて昔から漁業が主で、農業は従であつたので、自村の農産物を以て419

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