女川町誌
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検地と貫文中生の複雑した土地制度を全国一本に統制したのが天正十八年豊臣秀吉の検地である。此の検地は中世に於ける封建制を一層強化するためになされた政策であつた。このために農民は自ら耕作する土地に束縛されてしまつた。仙台地方の検地も恐らくこの時代から行われた。その後伊達政宗の時代に入り文禄二年と元和六年に検地を行つたが、二代忠宗寛永十八年に至り領内全部の検地を行つた。仙台藩農政の基礎的な事は、この時の検地により大体定められた。この時使用された尺度は竹竿を用い一間を六尺三寸として検地したのである。この検地を受けた事を「御竿答」と称した。各地に遺つている検地帳に「御竿答百姓云々」とあるのが、この検地を受けた面積や貢米租税の決定を受けた事を意味する。仙台藩では此の検地の結果、田畑の収穫高を表示するために貫文という言葉を用いる。一貫文を十石と定めているが、そもそもこの貫文というのは、鎌倉中期頃から年貢を貨幣で徴収する習慣となり、領主の知行高を年貢銭の高で換算する事が一般化され、一貫文の地は即ち銭一貫文に相当する徴収高をいつたのである。この中世の遺風をそのまゝ仙台藩で使用したのである。此の時は永楽銭であつた。一貫文の土地は幾何の米に相当するかというに、前述の秀吉検地天正十八年の仙台地方検地帳によれば、一石五斗が上田一段歩の収穫高とされている。一貫文は一千文であるから一貫文418

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