女川町誌
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選択の自由が禁ぜられていた。明治五年八月に至り「農業の傍商業を相営候儀禁止致し候向も有之候処自今勝手たるべきこと」と農民の自由が許された。明治七年の記録によれば当時女川全村の農家の戸数は百七十四戸であつた。之は恐らく藩政時代より封建身分制度と結合した世襲の農家であつたと思われる。その後自由に転業することが出来る様になつたので、女川村に於ては農民が減じて、漁民が次第に増加した。明治七年に漁業家数二百八十二戸であつたものが、七十年後には約三倍に近い七百十八戸に増加している。職業の自由が許された女川地方は漁村であるから、漁村的に発達して行くのが当然であつた。女川地方は昔から自家消費をも満足に充すことの出来ない零細農業地域で、多くの村落は根本的には部落占有の地先の海に依存しながら、同時に若干の山合の田畑と私有並に部落共有の山林等に依存して最少限の生活を営んでいたのである。従つて女川村の農民は漁業を行わねば生存の出来ない状態であつた。次に藩政時代に於ける浜方女川組の農業関係の記録として、享保年間に行われた検地による各浜の高が貫文を以て左の様に示されている。之を通して各地の耕土の分布を略し察知することが出来る。なお参考のため「検地と貫文」に関する記事を宮城県史より転載することにする。417

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