女川町誌
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右の条目の趣旨を徹底実行せしむるため、村々に五人組を設け、若し違反するものがある時は、一旦組中で忠告を与えて反省を促し、それでも尚且つ改悛せぬ場合は検断・組頭に訴えて処分を請うことになつていた。然しながら、如何に法律を完備しても、其の裏をかくものあるは古今軌を一にし、藩の厳しい条目の制裁も、これを巧みに犯するものも少くなかつた。即ち百姓は一人で五貫文五十石以上の田畑の所有を禁じられていたのに拘らず、種々手段を施して代官に取り入れ、五人分も八人分も一人で所有するものもあり。又嫁入り聟取りの祝儀に一汁二菜に魚一種と限られていたが、これも数々の料理を調えて大盤振舞いを行う例もあり、その他家作衣類の如き華美贅沢を尽し青年階級には、芸人を雇い入れて遊芸の稽古に耽るものもあつた。田畑を所有する者を百姓と敬称し、無所有者を無高百姓或は水吞百姓と蔑称したが、法網を潜つて違反するものは兎角御百姓に多く、無高百姓に少なかつた。それは水吞み百姓階級が、頭髪に結うに元結を用いず蒿稈で束ね、雨の日、傘もさゝず下駄も履かず、簑笠跣足で歩かねばならぬという、悲惨な制約下に置かれたからであろう。七、女川地方の農民藩政時代に於ては、農民の労働力が封建社会の体制を支える最大の基礎であり、武士階級の経済的基礎は農民の年貢に外ならなかつた。従つて農業放棄や転業は、その支配の基礎を危くするものであつたから、農民の移転とか職業416

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