女川町誌
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五、農民の生活難封建社会のほうかい、幕藩体制のもとでは百姓は年貢を生産物の半分以上もとりたてられ、その残りを食べ、ほとんど自給自足の生活を強制されていたが、それでも衣料の一部や鍋・釜・農具などは買わなければならなかつた。僅かな生産物を売つた金もかならず「工・商」の手もとにかえることになつていたから、農民は早くから生活難に苦しみ、仙台藩は侍の数が多いうえに江戸生活の出費は莫大となり、享保年間に吉村は倹約令に出し、特に農民には「御条目」という心得書を示し、わずかな田地を持つ百姓もどしもどし本百姓にとりたて、年貢の増収をはかつたが、財政はいよいよ苦しくなるばかりであつた。農民たちは重い年貢やきびしい買米にいためつけられ、農業にはげむ余裕はなくなり、ほんの少しの冷害や水害にも忽ち凶作をひきおこし、凶作はすぐに飢饉となつた。それは各藩がお互に物資の交流をやらなかつたから、食糧を移入することが出来なかつたのである、幕藩体制の中期、末期はほとんど飢饉の連続であつて、特に天明・天保の飢饉は其の中で有名であり、初めは農民の結婚を制限していた藩も「赤子養育」などの人口増加政策をとらなければならなかつた程餓死する者がでたのであつた。このようなことは全国的で各地に農民の叛乱「百姓一揆」がおこつたが、仙台藩としては栗原地方の寛政九年の一揆(一迫・二迫・三迫の農民数千人)しかおこらなかつた。六、百姓と御条目我が国は農業国として、昔から農は国本であるという思想を強く培つて来たので、士農工商といつて百姓は工商の上位に置かれた。しかし其の実際の生活状態に至つては極めて悲惨な農奴同様であつた。往時の百姓に対する法律として十六条の御条目と称する制裁があり、それを意約すれば左の如きもので、藩政下の農民が如何に虐げられたかが414

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