女川町誌
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百姓の数が少くなることであり、彼等から取りたてた租税で維持されている幕藩体制がくづれることになるので、幕府は早くから田畑の売買を禁止し、土地を分けることに制限を加え、仙台藩でも四代綱村の延宝五年(一、六七七)に五貫文以上の田畑を持つことを禁止した。五貫文というと、十石の生産高の土地を一貫文とよんだのであるから、五十石以上の生産高ある田畑を持つことは出来なかつたのである。また分家することによつて百姓の持地が細分化されるのを防ぐ為に、二、三男の結婚に制限を加えるなど、農民は強い干渉が加えられたのである。四、農耕技術の進歩この頃になると農耕技術も研究されるようになり、以前には見られなかつた農書も書かれ「日本の農学」が一段と躍進した時代であつた。江戸時代初期には筑前の宮崎安貞が『農業全書』を、後期には豊後の大蔵永常の『農家益・農具便利論・農稼肥培論・農家心得草』を、また出羽の佐藤信淵(嘉永三年歿)が『農学書・農政学』の書をあらわしている。農具としては灌漑水を汲上げる踏車やポンプ・まぐわ・すき・すりうす・石うす・からうす等が発明されているが、特に稲こき、千石どおしなどは劃期的なものであつた。肥料も糞尿類のほかに油糟類も使用され、また金肥(干鰯・油糟)、内肥(煤・糞)、地肥(焼土)、水肥(糞など)、おら肥(牛馬の糞・厩肥)などという肥料の分類もおこなわれるようになる。また養蚕も盛んにおこなわれるようになり、文化・文政から安政頃には外国に輸出するまでになつている。この頃の主要作物は五穀につゞいで四木(桑・茶・楮・漆)、三草(紅花・あい・麻)といわれたものがあつたが、勿論気候の関係で茶などは無理であつた。馬鈴薯は天明以後、煙草は天正頃から、玉蜀黍は天正年間に種子が伝来しており、かぼちやの種子は慶長元和の頃、いんげん豆は承応年間に明国より、ほうれん草は文久年間にフランスから伝来している。413

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