女川町誌
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空前の大規模な蝦夷征伐が行われた。以来東北地方は次第に北方に開発し、農耕また発達するに至つたのである。二、中世の農業経営降つて鎌倉・室町時代に於ける武家政治下の農村には、名主とよばれる地主と、作人とよばれる直接耕作農夫とが住んでいた。名主には数十町歩の土地をもつ大名主から、一、二町歩位の小名主まであり、これらの名主の一部は身分的に侍といわれる武士の階級に属し、その中には本所領家の命をうけて荘園の管理や年貢の徴収に当る荘官もあつた。鎌倉幕府の御家人とよばれる者はこのような農村に住む武士であつた。地頭制がしかれて地頭職を与えられると土着して管理権を掌握し、本所領家の支配力を弱めるようになる。作人は荘官や名主から土地を借りて耕作し年貢を納めるのであるが、その下には名子といわれる特定の地主に隷属する小作農があり、農村に於て自立自存することが出来ないので、地主や親分の庇護によつて生活するが、親方の家の生産労働にたずさわる以外に、年中行事や婚礼や葬式などにも働きにでて手伝うのが特色であつた。一般農民より一段ひくゝ見られ、対社会的な責任はほとんど主家が負うものであつた。更に地主に使役される下人という身分があつた。このようにして土地は耕作された。この頃になつて人糞尿が肥料として施用され、収穫も一段とあがるようになつた。室町時代の頃には緑草・灰などの肥料の使用が増し、農民は牛馬を所有し農耕に用いることは益々広く行われ、早稲・中稲・晩稲・その他の品種の改良も進められ、蔬菜の栽培も増してきた。こうした農業技術の進歩と生産力の増大は自然に農業経営方式と農民の階属分化に大きな影響を与え、大領主や豪族は自分の下人などを解放して小作人とし、作人から名主になるものもあり、反対に名主から作人に転落するものも出てくるようになる。有力な名主はだんだん農業から離れて武士となり、農村は小名主が農民の中心勢力となつて411

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