女川町誌
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地は次第に開発されたのである。この外朝廷よりこの地方に強制的に移住させられた農民も多かつたので、東北地方特に今の宮城県地方は大に開拓が進んだ。当時の移民は班田農民としての口分田(五才以上の男は二、三段、女はその三分の一)を給された。なお中央では鍛冶戸を置いて諸国の鍛冶戸を保護し、鉄器類の製造を図つた。かつ官僚には俸給として鍬などの農具を与えたので、鉄製農具は上層から一般民にまで普及したので、作業能率は増進した。更に牛馬の使役や堆肥・緑肥の利用、苗代に種を播いて移植する田植式農法も普及し、また水車なども使用する様になつたので、作物の手入れが行き届き収穫もふえてきた。こうなると耕地を永久に使用したいと考えてくるのは当然で、後に班田の制度がくづれる原因となるのである。しかし収穫があがつたといつても、上田ですら八斗前後に過ぎなかつたようである。農民は口分田のほかに園地・宅地を支給されたが、これらの土地は収穫の対象とされず売買も自由にできたから、殆んど私有地のようなものであつた。こうした畑地に対しては政府は、必ず桑・漆を栽培させ、また麦作等も奨励したので米以外の農作物、粟・ソバ・キビ・ヒエ・大豆・小豆・ゴマ・野菜・果樹なども普及するようにつた。然しその反面にはいろいろ重い負担を課せられていた。特にひどかつたのはしばしば公共事業に人夫として徴用されることであつた。多賀城や国分寺の造営はすべて彼等の労働によつたもので、この外にも征夷の軍にも従い。あるいは調庸というみつぎ物を遠く都まで運ばなければならず、その間に農耕をやるのであるから、その苦労は大変なものであつた。それで奈良の末期になると民心はかなり動揺し、宝亀十一年(七八〇)には、先に朝廷から氏姓を賜つた陸奥国の夷俘伊治公呰麻呂も遂に栗原郡で叛乱を起し、北方征伐に赴いた将軍紀広純を伊治城に囲んで殺し、更に多賀城に押し寄せて火を放つという事変が起つた。そこで桓武天皇の御代に至り、坂上田村麻呂等の諸将軍を遣し、410

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