女川町誌
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第二章女川町の農業第一節明治以前の農業一、古代の東北開発血縁を主とした原始的な村落社会も、次第に土地生産力の発達に伴い、経済的にまた政治的にも生長して氏となり、その氏上うじのかみが政治的権力を有つ様になつた。わが国皇室自身も一つの氏上であつたが、追々は土地・住民の世襲的支配を政治上の大きな目的としつつ、国家の統一が進み、やがて東北地方にも大和文化が次第に滲透して来た。奈良時代に編まれた日本書記や古事記などによると、景行天皇の御代武内宿禰を東国に遣わして、東北の地をも巡視せられた。当時この地方の住民は蝦夷と呼ばれた剽悍な先住民族であつたが、屢々朝廷の命に服さないため鎮守府将軍などにより征伐された。かくて奈良時代の初期までには、今の仙台地方以南の地は大和朝廷の支配下に入り、多賀城や国分寺が設置された。更に仙台以北の地にも、伊豆城・新田柵・桃生柵・牡鹿柵などの城や柵が設置されて、東北地方開拓の根拠となつた。是等の城や柵に配置された柵き戸のへのその多くは、関東地方や中部地方から遙々と派遣された公士や軍夫達であつた。 そして是等の人々は農具や新しい種子などを持つて来て、平生は農耕に従事したので、彼等の努力によりこの附近の409

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