女川町誌
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こゝでは鮎川港の過去の動きにさぐりを入れたにすぎないが、とにかく捕鯨基地としての鮎川が大きな転換期にあることだけはたしかである。そして、こゝにも生産の主導力となりえぬ寄生的な生活体制のもろさを痛感する。漁業は常に動く。資源のあり方と技術の進歩の相関によつて、豊漁はすでに明日の不漁をその内に醸成しつつあるとさえいえる。そして、最大の漁業たる捕鯨には、とくにそれが端的に示されているようである。この事実につき多くの町民の方々や学童に、町の運命を占つてもらつた。しかしその結果は多岐にわたつて、帰一するところがない。おそらく、それが実情であるにちがいない。十九世紀において、世界の捕鯨業に君臨したのは、アメリカのナンダケットの漁民であり、彼らはすでに幕末ころは金華山沖合にまで進出している。しかし今日、その本拠は観光地と化し、鯨族博物館の存在によつて、わずかにかつての活躍の跡を偲びうるにすぎない。捕鯨基地の命運のきびしさをこゝにも感ぜざるをえないのである。第十節国際漁業問題と女川の漁業今日国際的に日本の漁業が問題となつている所には、女川町の漁業者の関連して居ない所は甚だ少い。一、昭和三十三年頃から南氷洋の捕鯨にも問題がおきつゝある。それは従来各国が一漁期に合計で何頭という条約であつたものを、国籍別に何頭ずつと最初から割当ようという問題が抬頭して来たことである。日本の如く国は小さくも技術優秀な国は、大いに反対しているのである。女川町に支社が現存している日本水産のキャツチャーは、毎404

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