女川町誌
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除に出向いたという笑話さえ残つている。この捕鯨会社の放出物の下請加工がまず、大きい仕事の種となつた。地元有力者はそれぞれ事業場と特約して、処理後の残物を払下げて、肥料製造その他に当つた。そして一般町民の労力は、この面にかなり吸収された。もちろん、捕鯨会社自体もまた、かなり地元民に大きい働場を提供している。しかし、捕鯨漁の中枢たる海上要員には、意外に地元の人々の参加は少く、砲手その他の幹部漁夫は、ほとんど紀伊・土佐等の先進捕鯨地の出身者で占められてきた。事業場の上級職もまた同じである。つまり、企業の主体となりえなかつた事情はまた、労働状態の面にも反映し、いわば、地元民に与えられたのは、「シシの分け前」にすぎなかつた。しかも、捕鯨は季節が区切られ、捕鯨頭数も予測できない。鯨体処理の陸上労働はきわめて不安定なもので、そのシワヨセはとくに臨時的な労働者にあつまる。常傭でない労働者は全く予備労力のプールとして、企業者の時宜に従つて使われるにすぎない。しかし、ともかく昭和十六年までは近海捕鯨はだいたい上昇の姿を示しつゝ進んできた。ナガスなど大型鯨の類は漸減するが、技術の進歩によつて、マッコウ・イワシの類の捕獲が増大して、それを補つてきたからである。そしてマッコウ専門の意味で、大正十二年小規模のものながら鮎川町民の手で鮎川捕鯨会社が設立され、はじめて生産の主体となりえたことも特記してよい。それに金華山沖への旅船出漁の増加によつて、一時は魚類の水揚もかなりあり、その仲買と加工も一つの稼ぎ口となつたし、旧来の磯漁もなおつづいた。そしてこれらと組合わさつて、ともかく捕鯨業の陸上労働が鮎川漁港の主生業をなしてきたわけである。⑹漁獲の中心北方へ移行鮎川港の戦後の変動はいちじるしい。まず日本水産事業所の女川移動、鮎川捕鯨の極洋捕鯨への吸収、大洋漁業の新事業所の設立、近海捕鯨の創設と、大型捕鯨業に大きい変動が生じた。しかしなお三事業所を存置して、依然重要401
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