女川町誌
468/1094

きぬし、市場へ出せもしない。それゆえ近海捕鯨では漁場近接地にぜひ処理場を求めねばならないし、遠洋では「海上の工場」としての母船を伴うことになる。山がちの半島の突端に位し、陸の交通には全くめぐまれぬ鮎川が、漁業基地の一つとして成長し得たのは、「鯨漁場に近接したよい船がかり」という一点にかゝり、しかも金華山沖に鯨が群れあつまるという限りにおいて、それはそれは保証されるのである。昭和初年から房総地方の突棒船団が三陸に遠征するようになり、一時大量のカジキを鮎川港に水揚したことがある。鮎川漁協の共販市場はこれを契機に始まつているが、市場の利を得ぬため、ついにそれをつなぎとめえずに終つている。石巻湾のイワシもまた同様であつて、こうした事実は鮎川の漁業基地としての限界を暗示しているようである。⑷外来業者達の足だまり捕鯨は漁業における最大の企業であり、旧時代とても莫大の資本を要した。洋式捕鯨はもちろん発足当初から、大企業による経営であり、しかもまもなく企業の大合同がおこなわれて、東洋捕鯨(日水)となり、さらに合同に加わらなかつた土佐系三社もやがては、林兼(大洋漁業)に吸収され全く大資本の独占企業と化して行く。旧式捕鯨の伝統を全く持たぬ三陸沿岸に、急速にいくつかの基地が生じ、捕鯨業の大中心といつた姿を呈しても、それは別段地元の人々の自力による結果ではない。全く外来の捕鯨企業者の操業の便に従う足だまりにすぎないわけである。⑸地元民はシシの分け前捕鯨業の進展は鮎川町民に多くの生業の種を与えてきている。だいたい発足当時の鯨体処理はかなり粗放なもので各会社は主に鯨油をとるだけで、鯨肉その他は多く外部に放出した。処理施設のきわめて未整備であつたことも一つの原因で、網地島との間の瀬戸には、鯨肉が満ちただよい、さらに対岸の長渡浜にそれが打寄せては、しばしば磯掃400

元のページ  ../index.html#468

このブックを見る