女川町誌
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六、捕鯨基地の運命これは昭和三十年六月二十五日の河北新報紙上に、東北大学助教授竹内利美氏が掲載した論文で、鮎川港を主としたものであるが参考として次に掲載する。⑴本格的活動は日露役後日本の捕鯨業の歴史は古いが、久しくその活動舞台は西日本沿岸に限られていて、三陸近海には手が伸びなかつた。天保九年(一八三八)仙台藩が桃生・牡鹿の漁民に命じて今の雄勝町大須浜を根城に、鯨とりをおこなわせたのが金華山沖捕鯨の最初と思われるが、しかし技術の未熟と、鯨肉の売りさばき先がないため、まもなく廃絶した。はじめの年には七頭の鯨にモリを立てたが陸揚げできたのは三頭にすぎない、その上鯨肉をはるばる仙台城下に運んでも、買手が全くない。鯨油は領内の需要に十分ふりむけられるとしても、これでは採算がとれないなどと、当時の記録にみえている。とにかく、こうして網取式と呼ばれた旧式捕鯨法の洗礼をほとんどうけないまゝ、三陸漁場は明治期をむかえたのである。明治三十二年、日本遠洋捕鯨会社(東洋漁業会社)ははじめて、ノルウェー式捕鯨法を採用して朝鮮沿岸で操業を開始した。日本の捕鯨業はこゝに第二の夜明けをむかえ、日露役後は急速に伸びて大小十二の捕鯨会社が乱立するに至つた。金華山沖が日本近海捕鯨の最大の漁場となるのは、それ以後のことで、捕鯨の町「鮎川」は、こうした情勢のもとに生れたのである。⑵戦前までは発展の一路明治中期まで鮎川浜は五十五戸たらずの小村で、春は黒崎や清崎、そして金華山周辺の海藻採取、夏場はカツオ漁398

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