女川町誌
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十二年五月創立した東洋捕鯨KKは翌四十三年大日本水産KKと改称し、キャツチャーボート三〇隻を有し、九州五島の黄島と和歌山県の大島に翌四十四年青森県の鮫に事業場を増設した。大正十年抹香捕鯨に限り百マイル以上の沖合まで出漁し得る大型キャッチャー四隻の許可を受け、昭和九年に至り一切のヒゲクジラも百マイル以上出漁可能となり、大型キャツチャー二十五隻の許可を得たが、当時の各会社の所有隻数は日水一九、林兼○は四隻、遠洋一、鮎川(昭一二年極洋と改称)一である。然るに大戦中昭和十八年に統制が行われ、日本水産は日本海洋漁業統制KKと称して十九隻を保持し、林兼・遠洋は西大洋と称して五隻となり、極洋は依然一隻を保持して合計二十五隻が日本政府より許可された隻数であつた。大戦の終了と共に占領軍の集中排除法により、十一月日本水産KKと改めて十一隻に減じ、日本冷蔵が日本より分離して林兼に入り五隻となり、又極洋は五隻、近海は二隻、日東二隻、計二五隻となり、今日も尚其隻数を以つて各KKは事業を継続しているのである。二、日本水産KKと女川港・本町は商港工事の進行状態と日本水産の意のある所を察し、これが誘致をしたのであるが、昭和二十五年五月より操業を開始し、昭和二十六年四月昇格して出張所とした。日本捕鯨の事業場は釧路出張所及び其の管内の網走・女川日水のキャッチャーボートの浮ぶ女川港 395
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