女川町誌
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まれに見る多数家族員数とは、「サッパ漁家」の生活の向上をはゞんでいる。この生活における困窮は近海漁業への発展の過程にある女川漁業経営に対して、低賃金労働者を供給する重要な基盤を与えていると推定することが出来る。第九節我が国の捕鯨と女川港(日本の調査による)一、ノルウェー式捕鯨事業原始的捕鯨は各国夫々の方式により行われたが、仙台藩にもその記録はある。九州中国地方には網代式と云つて網で包んで刺し殺す日本式が行われてあつたが、それが現行のノルウェー式となつたのは岡十郎氏の時からである。岡十郎氏は明治三年山口県に生れ慶応義塾出身者であるが、同三十二年長州丸を建造し山口県仙崎を基地として我が国最初のノルウェー式捕鯨なるものを開始し、同三十九年牡鹿郡鮎川に事業を開始し、同四十二年九つの会社を統合して東洋捕鯨株式会社(日本の前身)をつくり、資本金七百万円を以て千島・朝鮮等にも事業を開始した。当時のキャッチャーは九十五屯乃至百二十屯の鋼鉄船であつた。砲手は皆ノルウェー人であつたが、明治四十二年頃に至り広島の北畑定之助氏、和歌山の向三吉氏等が日本人砲手の先駆者となり、次第に日本人が入替り、現在外国人砲手は一人もないようになつたのである。野蒜の志野徳助氏は明治十一年に生れ、二十三才の時教員生活より航海業に転じ大洋捕鯨KKに入り同四十年船長となり、二十六年間の体験を生かして昭和十一年南氷洋捕鯨最初の船団を組織して壮途についたが、オーストラリアのフリーマントル港に寄港したる際脳溢血をおこし遂に死去した。享年五十九歳、明治四394
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