女川町誌
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本誌の出版まで 女川町は明治二十八年に始めて石巻・渡波方面へ荷馬車で魚類を運べる道路が出来たという事実から見ても文化の新しい地方であることがわかる。しかし慶長十六年と明治十八年とに外国人から、良港湾であることが指摘され、明治二十年には早くも女川大築港計画を内務大臣が閣議に提出した程の港湾で、而かも最近又々新なる角度からそれが再認議されて来ている良港湾を持つている。その上女川町は水産事業に一大特色を有つている郷土である。これ等の開発と建設とを語る根本資料は、明治二十二年以来の会議録を始め数多く本町役場等に保管されていたので、この貴重な資料を骨子として編纂を進めることが出来たことは真に力強いことである。 さて私共鈴木喬・相沢清六の両人は、昭和二十七年四月専門委員に任命されて以来、満六か年机を並べて日勤しつつ屢々論議討論を重ね、どうやら、これならと思われるだけの資料を蒐集し、顧問菊地先生を委員長にお願いして一切の資料を差出したのである。この間委員三宅玄雄師と令息宗議君とは町内先住民族の遺跡を隈なく蹈査せられて、この遺品・出土品などの資料を蒐集整理して協力せられ、また木村公・遠藤慶司両氏は終戦後の地方財政、特に女川町の財政解明に尽力されたのである。その他各種資料の蒐集には町役場吏員各位並に町内各学校の先生方各区長さんから少なからぬ御助力を頂いた。更 7
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